妻から見た「光る石資料館」

〜 光る石鉱石資料館てんまつ記 〜

平成5年から喜和田鉱山跡に開設した資料館。平成20年に閉じるまで、
そして平成21年に長年過ごした大谷鉱山社宅跡で再開設するまでのてんまつ記。



[はじめに]

二鹿の看板
  平成19年11月3日 坑内に残っていた鉱石を無事坑外に運び出した”打ち上げ ”の日、私はいつものように資料館担当、休日でにぎやかなお客様お相手をしていた。秋陽穏やかな広場での祝宴を眺めて思う。


本当に、”よろしおしたなあ”。


  これで朝々無事故を祈って主人を送り出した、7か月の緊張感から解放される。ご苦労の連続だったから、作業員さんの奥様方もご安心、事無く終わって、

”ほんによろしおした。”



[平成20年3月 主人は私にいう]

  ”坑口は閉塞し、なすべきことはなした。閉山する以上は、喜和田にいつまでもいる事はない。資料館を続けることもあるまい。” と。

確かに平成5年の開設から収益を鉱山維持に充ててきた資料館である、数えれば16年。私の耳には、鉱石搬出を決めた時の作業員さんの言葉がよみがえってくる。彼は感じ入った様子で私に告げた。
”奥さま! 鉱山長はほんまに鉱山男やね。”

幕を引いた鉱山跡地に、恋々として止まるのは潔くない。主人の気持ちはよくわかる。でも何かあれば資料館担当を余儀なくされ、励んできた私には私なりの思い入れもある。鉱山男はアクセサリーを、首輪、腕輪、耳輪と呼び私を驚かせた。
”今は縄文時代じゃないのよ。ネックレス、ブレスレッド、イヤリングというの。”
から始まった16年間。 原石・鉱石・化石・結晶鉱物などは主人が、貴石・宝石などは私が扱うようになった。この世界も奥が深く、学ぶほどに興味が尽きない。


  お客様のご注文は、ご予算の範囲内でベストの品質をと心がけてきた。お売りしてハッピー、お買い上げの方もハッピー、を共有できるように心掛けてきた。それがリピーターの増加や女性たちの”奥さまコール”につながったと思う。

  山中の資料館は古式蒼然のたたずまい。間違いなくボロながら、中身はいささかの自負もある。打ち切りは残念。沈思黙考してしまう。が、やっぱりここは鉱山屋の「夫唱婦随」であるべきであろうと判断した。


”お言葉どおり、引き上げましょ。 終の住処に落ち着きましょ。”

(私) ”これからどうするの?”

(主人) ”百姓をする!”

(私) ”それだけ?”

(主人) ”それだけ。”

(私) ”資料館の品物は?”

(主人) ”放っておく!”

(私) ”まあ、それはもったいな〜い”

(主人) ”・・・”

(私)”・・・”






(私) ”「光る石資料館」をやってみない?”

(主人) ”???”

(私) ”手持ちの蛍光鉱物や喜和田の鉱石も使えます。”

(主人) ”?・・”

(私) ”何よりも、人と接してボケ防止になりそうよ!”


この辺りから”夫唱婦随”の夫と婦が移行し始めて、やがてめでたく意見は一致した。京都府亀岡市の自宅倉庫をリフォームして新資料館を開くこと、喜和田での営業は2008年8月31日までとすんなり決まった。



[惜別の日々 千客万来]
記念碑
6月末にごく親しい地元紙の記者に閉館・移転を打ち明け、7月初めその記事が載ったことから、お客が増えて大忙しとなった。おなじみの常連さんたちは別れを惜しみ、新規のお客さんは資料館を知るのが遅かったと嘆かれる。特に、地元有志のご要望で建てた「喜和田鉱山跡」の記念碑おひろめがテレビや新聞で報じられてからは想定街のにぎわいとなった。お心のこもる惜別のご挨拶に、胸を熱くしたことも度々。



”あちらの世に行くわけではないので、またお目にかかります。その折を楽しみにしております。”

とお返事すると、

”それにしてもお疲れのないよう、くれぐれもご自愛を”

と労わって下さり、うれしい限り。



(続く)

 

 

 
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