喜和田鉱山

  喜和田鉱山は寛文九年(1669年) 二鹿銅山として始まる。藩主吉川廣嘉御掘らせ候の古文書があり、錦帯橋架設の時期と重なる後年 大字キワタ聖徳太子の地名から、喜和田鉱山と改称された。

  粟村敏顕が明治四十二年(1909年)タングステン鉱石の含有を認め、鉱業権を得て操業。わが国初のタングステン鉱石選鉱場を建設する。大正期には露天掘りで本坑・末弘・朝日・間歩・釣上等の鉱体を採掘、粟村は日本のタングステン王と称された。

  昭和に入って物理炭鉱および試錘により十二の鉱体を発見する。中でも第十一鉱体は喜和田鉱山最大、且つ世界でも類を見ない高品質・高品位鉱であった。紫外線を当てると坑道全面で鉱石が青白く光り、地中の天の川と言われ世に喜和田鉱山の名を高めた。

  平成四年国内最後のタングステン鉱山として終る。


昭和51年 開鉱時の長栄坑


平成20年 坑口閉塞作業中の長栄坑



喜和田鉱山の鉱床について


喜和田鉱山の各鉱体は、本地域のN70°W方向を軸とする褶曲構造により規制されて配列するレンズ状石灰岩と、N30°E系の石英脈とが交差する部分に主として存在している。

それらの中で最も大きい第11鉱体は、120×50×40mの規模のレンズ状乃至錘状石灰岩を交代した鉱床である。これはこの石灰岩岩体の外側を交代した皮殻状スカルンとそれを貫く石英脈周辺部から構成されている。
皮殻状スカルンは、外側の粘板岩から内側の石灰岩へ向って、おおむねヘデン輝石帯 ― 拓榴石・ヘデン輝石帯 ― 拓榴石帯 ― 珪灰石帯と累帯配列をなしているが、部分的には不規則である。

第11鉱体


この皮殻状スカルンおよび石灰岩をN30°E方向の石英脈が数本貫いており、この周辺では石英脈がもたらした熱水の影響により前述の皮殻状スカルンとは異なった鉱物の共生が見られる。皮殻状スカルンは一般的に品位が低く、WO3 1%程度あるいはそれ以下であるが、石英脈およびその周辺では驚くほど品位が高く、WO3 10%を超え、時には50%に達するものも少なくない。

主要鉱石鉱物は灰重石で、他に黄鉄鉱、磁硫鉄鉱、硫砒鉄鉱、閃亜鉛鉱、方鉛鉱などの硫化鉱物を伴う。石英脈周辺では、石英脈をはさんで一般的には10%以上の高品位の縞状灰重石帯、ついで硫化鉱物帯と帯状配列のみられることが多く、硫化鉱物帯も普通は2〜10%の高品位タングステン鉱体である。

スカルン鉱物は、拓榴石と単斜輝石を主体とするが、拓榴石は灰ばん拓榴石 ― 灰鉄拓榴石固溶体のいわゆるグランタイトで、さらにかなり多量のマンガンを含むことが特徴である。単斜輝石はほとんどヘデン輝石が主体であるが、なかには拓榴石同様、マンガンをかなり含むものが見られる。鉱石鉱物である灰重石はほぼ純粋のCaWO4である。

以上のような産状から、喜和田鉱山のタングステン鉱床はまずレンズ状の石灰岩が交代されて皮殻状のスカルン鉱床が形成され、続いてN30°E系の裂かを充填した石英脈が同時に多量のタングステンの供給をもたらし、極めて高品位の鉱床を形成したと考えられる。

 
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